薩摩国薩摩藩(主に現在の鹿児島県)出身の武士。当時の藩主・島津斉彬の目に留まって抜擢されましたが、斉彬の死によって失脚し、奄美大島に流されました。その後一度は復帰するものの、今度は沖永良部島へ流罪となります。しかし薩長同盟の成立や王権復古の成功、戊辰戦争の指導で活躍。江戸無血開城にも尽力しました。明治には参議として新政府に復職するものの、2年後には鹿児島へ戻り私学校で教育に専念します。1877年に西南戦争の指導者となりますが、破れて城山で自刃しました。賊軍の大将として官位もはく奪されますが、その人柄は明治天皇をはじめ多くの人から愛されており、1889年の第日本帝国憲法発布に伴う大赦で、名誉が回復されています。